孤独は悪でも恥でもない。

…と、思いたい。

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義務感やしがらみで押しつぶされないために。

それにしてもよくこんなスクリーンショット残っていたな…

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ラグナロクオンラインを引退することになってから

前回の記事でRagnarok Onlineを引退した話に少し触れました。もしかすると復帰するやも知れません、現時点では未定。

11月末だった訳ですが、暫くの間はチャット看板を出して周知しておりました所、知らない方からもメッセージを頂いたりナドしまして大変有難い事です。

ギルドでご厄介になっていた知り合いR氏(L氏?)からも書き込みがあり、 また機会があれば遊ぼうと言うお話。

これが、申し訳ないことに社交辞令にしか受け取れなくて。

「また一緒に」を、信じることができない

と、申しますのも…多分、彼らとはもう遊べないだろうと思ったのです。

連絡手段が殆ど確保出来ていませんでしたし、ワタクシも余り多くは求めませんでしたから。

ギルドの方たちの幾名かは、PSO(ファンタシースターオンライン)などで一緒に行動などしていたようですが、私はプレイしておりませんでしたので。

どうも引っ込み思案で受身で中々人との繋がりを保とうという方向に動かないので、これまで幾多の方と出会い、自然消滅して参りました。
訳あって自分から遮断した相手も何人かいます。

人との繋がりは良いものではあるのですが、その半面、様々な不安や杞憂などに束縛されてしまうのもしばしばありまして、そういった感情に支配される位なら孤独を選んでしまう、という方向に働くのかも知れません。

内向的な性格で、たくさんの人と時間を過ごすと充電が必要になってきますし、1人であっても、何か調べ事をしてみたり、色々な物事について思い巡らすことで時間は過ぎていきますから。

またね、今度云々…って良く言うんですけども、そういった約束を果たすためにはエネルギーが必要です。

そのようなエネルギーを進んで消費する気持ちがあるのか?と思うと、実際どうなの?と。

お互いが本当に同じ気持ちでなければ、再会など果たせる訳がないのではないか、と思うのですよ。時として「偶然の出会い」もあるでしょうけれど。

それこそ、よくある「ちょっとした日常会話代わりの、守ることを前提としない口約束」にしか聞こえないと言いますか。

もし、相手が同じ気持ちであると確信すれば、私も努力する準備があります。

けれど…

どうにも臆病で、つい逃げてしまいます(もう逃げグセが…w)。色々な人に約束を破られまくった所為か(疑いグセまで…w)。←ツルっと信じてしまう

「うん、機会があったらね」それでいいじゃないか

そうかと言ってそんな自分をどうするかという風にも余り考えないので、今後も同様のスタイルで人間関係を構築していくのではないかと感じております。

またね、今度…といわれたら。

「うん、お互いに同じ気持ちで、そんな機会が訪れたらまた会おう」

そういう風に考えることができるようになってきました。何もこうでなくては、と相手に押し付ける必要もないし、言われたことに責任を感じる必要もありません。

ただ自然に任せ、そういう流れになってそれがお互いにとって不快でないのなら、それはそれでいいんじゃなかろうかと言う結論です。

独りでも苦しくないのなら気に病む必要はない

それはさておき、未だに首を傾げてしまうのがRO内で所属していた筈のギルドにいつの間にやら除名されていたという事実。

私は当初、あまりにもログインしないので除籍されたのだと思い込んでいましたが…真相は誰ぞ知る、というトコロなのです。

人とは群れるものです。会社であれ、学校であれ、何かしらに所属しています。

私自身は余り何かに属すのは好きではありませんでした。

といいますか、引っ込み思案?所謂「群れるのは嫌いだ」というヤツ(笑)。

恐らく、誰かといると何かしらトラブルになる(または、巻き込まれる)ため、1人で居た方が良いとどこかで思っていたのでしょう。

こんなつまらない人間(自分)とは一緒にいない方がいい…と小学生から本気で思ってました!

実際のところ、相手に期待して結果、捨てられるのがいやだったのかも知れませんし、本当にそう思っていて、相手のために遠ざかったのかも知れません。

そういう風に卑屈になった理由のひとつとしては恐らく、小さい頃からいじめに遭っていたからです。

いじめというものは、人を貶めて自分自身を相対的に高めようとする、とても卑しい行為です。これを長期間に渡って受けますと、『自分には価値がない』という強い固定観念が植え付けられます。

自分にとっての「楽な生き方」を見つける

それで今までやれてきましたし、現在も俗に言う「独り」ですが家族が居るので寂しくありません。基本独りでいるのが好きで、本を読んだり、色々なことを思い巡らして静かに時を過ごします。

一方で常に誰かと居て、人と話すのが好きな人もいます。私自身も小学校の高学年の頃などは一緒に登下校する人が若干名おりました。

色々な生き方、過ごし方がありますし、たくさんの人がそうしているからと、無理に型にはまる必要はありません。自然とそうなっていたのなら、それが自分にとっての、「本来楽なスタイル」なのではないでしょうか。

自分自身の性質を受け入れる

人はそれぞれすべて、収まるところに収まっていくものなのです。

ですから、あえて「独りでいる」こともひとつの選択肢であり、そのことに責任(と、言うのか?)を持っていけば良いと思うのです。

人は成長するという意味で変化する必要ももちろんありますが、どうにもならない時に自分を責めず、性質をある程度受け入れることも時として必要なのではないかと。

孤独は悪でも恥でもない。

時には逃げても構わない、けれど拒絶だけはしないようにしていきたいですね。そして、許したい。

懐の深い人間に成長したいものです。

そして、孤独と孤高はまた異なるかも知れません。

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